ラジオからふいに聴こえたその歌は、寂れたこの場末のバーには似合いすぎるほどの憂鬱なブルース。
どんなにチューニングを合わせてもどこかくぐもった音しか鳴らすことのできないその躯体は
ごく一部の愛好家の間ではヴィンテージなんて立派な名前を冠されてもてはやされているらしいが、
こと、うらぶれたこの店内においては誰からも興味を持たれずに、
さも当然とばかりにカウンターの正面に我が物顔で鎮座ましましている。

音楽は時に凶器だ。
耳馴染んだ懐かしいその旋律は、とうの昔に沈めたはずの古い記憶を呼び覚まし、
堅く閉ざされたその蓋をこじ開けようと、研ぎ澄まされた鎌のように重い一撃をくれていった。
記憶の蓋の隙間からこぼれ出した思い出を、もう一度堅く仕舞いこもうと
手元のグラスを一気に煽ると、琥珀色の液体が焼きつけるような熱さを伴って腹の方へと沈んでいく。
勢い良く下ろしたグラスの底がテーブルにぶつかって、静かな店内に響いた。

「どうかしたのかい」

声の方へと目を向けると、空席を挟んだひとつ向こうに無精髭の男が座っていた。
ちびりちびりと舐めていた酒を一気に煽ったその理由を尋ねているらしい。

「・・・あなたの煙草の煙が目に沁みたのよ」

「嘘をつけ。俺はさっきからここで1時間も煙草をふかしてる。
 お前さん、なんでもない顔で飲んでたじゃあないか」

「そうだったかしら。なんでもないの、気にしないで」

暗に触れてくれるなという意味を込めてそう応えると、男はますます食い下がる。

「冷たくあしらわないでくれよ、話し相手が欲しいんだ。この時間じゃもう俺の待ち人は来ない。外は雨。
 恋人に振られた上に雨にまで濡れたんじゃ、俺は肺炎起こして入院しちまう」

男は大げさに肩をすぼめ、両手を広げておどけて見せた。
振られたと言う割には、随分と陽気に見える。

「なぁ、良かったらあんたの話を聞かせちゃくれねえか。
 別に俺に話すんじゃなくったって良い、あんたは独り言を喋ってるだけ、
 それを俺が勝手に聞き耳立ててるって事にしてさ。
 俺はあんたを知らない。お前さんも俺のことを知らない。
 ただの他人だ。たまたま同じ店に居合わせただけの、知らねぇ者同士だから、
 ナンの関係もねぇ、ナンのしがらみもねぇ相手にだからこそ話せる話って、あんだろ」

よく喋る男だ。
気が付けばあの憂鬱なブルースはその出番を終えて、ヴィンテージという名の付いたラジオは
相も変わらずそのくぐもった音を店内に漏らし続けている。

「そうね・・・古い話よ。よくある退屈な話」

気まぐれという使い勝手の良い理由をつけて、私は口を開いた。

その頃私はまだ若く、そしてそれ故に無知で、要するに世間知らずのお嬢さんだった。
ナイトクラブのステージでピアノに寄りかかりながら歌を歌うのが生業であった私は
そこかしこの酔い客から好きだ、綺麗だ、ともてはやされる事に慣れてしまって、
ステージの上からキスを投げてそれをあしらい、幕が下りた後はステージの袖で緞帳にしがみついて
サックス吹きの男と情事を交わすという、なんとも擦れた生活を送っていた。

ある日の事、いつものようにステージに上がると、黒づくめの男がひとりテーブルについていた。
まるで検閲でも受けたかのように、見慣れた店内のそこだけが黒く塗りつぶされている。
備え付けのようにさまになっている黒のボルサリーノの隙間から
カミソリのように鋭い目が私を覗いていて、射抜かれた私は一瞬にして恋に落ちてしまった。
その晩から私は家に帰らず、気付けばそのままその男と暮らし始めていた。

街でもっとも豪勢なホテルの一室。そこが私とリボーンの愛の巣になった。

「なぜ、こんな高いホテルにずっと泊まっていられるの?」

ある時そんな疑問をリボーンにぶつけると、彼は片方の口の端を持ち上げるようにして笑って答えた。

「金には不自由していないんだ。俺は、殺し屋だからな」

私は、その回答に恐怖するでもなく、絶望するでもなく、
ただ純粋になるほどそうかとその答えを受け止めて、「素敵。ロマンチックね」そう言ったら、
リボーンはさも愉快で堪らないといった風な素振りで私を肩に担ぎ上げると、
そのままキングサイズのベッドに放り投げた。
まるで遊園地のアトラクションのような体験に、私がケラケラと笑い転げていると、
スプリングを軋ませてリボーン自身もまたベッドへとダイブしてくる。
両の手首を掴んで馬乗りになり、私を組み敷いたリボーンは

「@@@、お前は本当に、どうしようもなく可愛い女だ」

カミソリのような目を細めて私を見下すと、そのまま首筋に歯を立てられた。

「殺し屋なんて嘘つきな人。リボーン、あなた本当は吸血鬼なんでしょう。」

「他人の血を糧にして生きているという意味では正解だな。
 正体がばれてはマズイんだ、早いところ口を塞がなくては」

そう言うと本当に呼吸が止まりそうになるほどのキスをお見舞いされた。

リボーンと私の生活は悠々自適そのものだった。
私はナイトクラブでの仕事をやめなかったので、夜はステージに立ち、
仕事が終わればホテルの部屋へ帰って昼過ぎまでベッドの中で過ごす。
いったいどれ程のお金がホテルに支払われているのかは分からなかったが、
とにかくリボーンからもホテルからも、金銭の要求をされる事がなかったため、
それまで家賃に消えていたお金が使えるようになった私は、
服だのアクセサリーだのに費やしたり、エステに通ってみたりと奔放にしている。
リボーンはというと、数日ふらりといなくなることもあれば、
気まぐれに店に顔を出して私の歌を聞きに来ることもあった。
明らかに羽振りの良くなった私を不審に思ったのか、同僚のウエイトレスに問い詰められて
つい現在の生活について、口を滑らせてしまった時などは
あまりにも怪しい人だ、ふらりと消えて、そのまま戻ってこなかったらどうするつもりなのかと、
至極まっとうなご意見を頂戴したのが、恋は盲目とでも言うべきか、
その頃の私は自分がどれ程危うい橋の上に立っているのか皆目分かっておらず、
良いじゃない、幸せなんだから。なんて、自分の行く末をまるで理解していない
端から見ればあまりにも滑稽な程に、恋に浮かされた女だった。

ある夜の事。
セックスをした後、いつものように裸のままリボーンと眠りこけていたら
いつもならばエスプレッソと煙草を与えない限り、決してベッドを出ようとしないリボーンが
とんでもない勢いでがばっと起き上がり、
隣で寝ていた私を足蹴にしてベッドの下に叩き落とした。
痛い、ひどい、何をするんだとぎゃあぎゃあわめく私に
「着ろ」ただ一言そう言って、脱ぎ捨ててあったガウンを投げつけると、
それまで見たこともない、すさまじい緊迫感でもって部屋を飛び出していった。
夜はまだ明けていない。暗闇の中、ベッドサイドのデジタル時計だけが目に入る。
午前3時。一体何が起こったのか理解できていない私は
ベッドから蹴落とされたまま座り込んでいた床からようやく腰をあげた、その瞬間。
とんでもない炸裂音が私の鼓膜を震わせた。
部屋の外。それもドアを隔ててすぐの廊下から聞こえてくる。
銃声。これは銃声だ。それも1発や2発どころではない、
花火のスターマインのようにそこかしこで銃声が鳴り響いている。
とにかく、この場を離れなければ。
投げつけられたガウンをぐちゃぐちゃに着て部屋を飛び出すと、
見えない何かが残響を残して目の前を通過していった。
弾丸、だった。
弾丸が目の前を飛んでいくなんて当然の事ながら産まれて初めての経験である。
命の危険を察知した脳が最高レベルの出力でデンジャー、エマージェンシーと伝えていた。
逃げなければ、火急的速やかに、この場を離れなければ、
しかし、足がすくんで動けない。

「@@@!!!」

リボーンの怒鳴り声がした。
振り向く間もなく、もげそうになる程の力で腕を掴まれ、半ば引きずられるようにして
廊下の一番奥、防火扉の中へと押し込まれた。

「逃げろ。絶対に後ろを振り向くな。前だけ見てひたすら走れ。
 交番に飛び込んで助けを求めろ」

防火扉に押し込む寸前、リボーンは矢継ぎ早にそう告げた。

そこから先のことは、あまりよく覚えていない。
長い非常階段をひたすら降りて外に飛び出し、ガウン一枚で通りを走って交番に駆け込んだ。らしい。
まだ夜も白み始めぬ深夜3時、雪のちらつく真冬にガウン一枚の女が駆け込んできては、
警察官もさぞかし驚いた事だろう。

夜が開けると、私とリボーンの愛の巣であったホテルは、辛うじて外観はそのままに、
街の目抜き通りの正面に悠然とその姿を保ってはいたものの、
中身はもはや高級宿泊施設ではなく、瓦礫の山と化したようだった。
瓦礫を隠すそのハリボテの姿をパトカーとマスコミの中継車にぐるりと取り囲まれて、
さぞや居たたまれない気持ちでいるに違いない。
私はその光景を、交番のテレビで見た。
わずか1ブロック先、外に出ればサイレンの音やヘリコプターの姿を確認できようが、
そんなものは私の目と耳には入ってこない。捉えるのはテレビの画面とアナウンサーの声だけだ。
死者数名、重症者多数。歴史あるそのホテルの営業再開は絶望的―――
脱け殻のようにテレビを見つめる私に、ひどく気の毒そうな顔をして、警察官は言った。
お前さん、よく無傷でここまで逃げてこれたもんだ。
そうして私は、廃業となったホテルのガウン1枚を残して全てを失った。

後日、重要参考人として警察から取り調べを受けた際、そこで初めて私はズタズタになるまで痛めつけられた。

ホテルに一緒に泊まっていた男の名は?
―――リボーン。

それは、本名なのか?姓はなんと言う?
―――知らない。

年齢は?
―――知らない。

連絡先は?
―――知らない。

そう、私はリボーンという男のことを丸きり何も、知らなかった。
担当刑事が唯一メモしていたのは、リボーンが好んで吸っていた煙草の銘柄だけだ。
キスの仕方や、愛撫の順序、肌をすべる滑らかな指先―――
そういった類の話であれば、いくらでも情報提供できるというのに。
例えば私が、何か有力な情報を握っていて、それを黙秘しているのであれば、
説得するなり、多少手荒な真似をするなり、警察にも多少のやりようがあっただろう。
愛していると思っていたはずの男について、一つ一つ「知らない」と認めていくという行為は、
まるで心に一本ずつナイフを突きたてていく拷問のようだった。
自分の愛していた男は、虚無の存在であったと、認めざるを得なかった。

それから20年が経った。
ホテルであった場所は、一度完全に更地にされ、今は何も知らない若者たちが集まるショッピングモールになっている。
街の目抜き通りの正面、新たなシンボルとなったそのショッピングモールの斜向かいに建つこのバーは
20年前と変わらず、より一層の深みを増して今でも静かに営業を続けていた。

「マスター、彼女にもう一杯グラッパを。」

煙草をふかしながら静かに話を聞いていた無精ひげの男は、物語の終幕を察してそう告げた。
カウンターに自分と私の分の会計を置くと、男はコートを着て立ち上がる。

「素敵な夜をありがとう。―――あんたは綺麗だ。昔も、・・・そして今も」

冷たく降り注いでいた絹糸のような雨はいつの間にか上がっていた。コートの襟を合わせて、男は店を出て行く。
一人残された私はマスターから差し出された2杯目のグラッパで乾いた唇を濡らした。

「―――ありがとう」

20年ぶりに訪れたこの街に、また新しい一日の幕が開けようとしていた。