ローマ、朝8時。
ショッピングモールが立ち並ぶこの界隈に人はまだまばらで、
さすがにちょっとやりすぎたかなと思いはしたものの、それでも初志貫徹が私のモットーなので
手元の紙袋からごそごそとコーヒーとクロワッサンを取り出す。
マキシ丈のワンピースの裾を踏まないように少しスカートをたくし上げて、@@@は歩を踏み出した。

もぐもぐとクロワッサンを咀嚼しながらショーウィンドーを眺めていたら、
ポケットの中の携帯電話がブルブルと鼓動した。
一体誰だこんな時間に、と思いながら持っていたクロワッサンを咥えて片手を空け、
ポケットからストラップごと携帯を引きずり出すと液晶にはシャマル、の文字が煌々と表示されている。

「ふぁい、もひもひ」

「何か食いながら電話に出るな、お前今どこにいる?」

すごい、短いセンテンスの中に言いたいことを2つも詰め込んで来た。
やっぱりこの人頭良いんだろうな、いつも飄々とした振りをしているだけで。

「ティファニー」

「あぁ?」

「だから、ティファニーの前。クロワッサン食べながらショーウィンドー観てた」

「・・・お前な、ここはニューヨークじゃなくてローマだ。
オードリーヘプバーン気取りたいならトレビの泉に真実の口がセオリーだろ。」

じゃあシャマル一緒にバイクに乗って観光案内してくれるの?と聞いたら電話口の向こうでため息が聞こえた。
分かってる。分かってるよ、言ってみただけ。
そしてこちらに聞こえる程のため息はそれなりに傷つくのでやめておくれ。

「いいよ分かってる。私は私、シャマルはシャマルでローマを楽しもう?」

そう、そこが今回なにより重要、ベリーインポータントな事柄なのだ。
私たちはなにも手に手を取り合ってローマの休日を堪能しにきたわけではない。
休日なのは私だけ、シャマルは仕事―――とは言え内容までは知らない、というか教えてくれない。
それはまぁ、言えない様な内容だろうから別にいいんだけど。

イタリアまで来て別行動の理由を話そう。
遡ることおよそ10日ほど前の夜。
並盛町駅前の雑居ビルに入ったこじんまりしたバーでふたりで飲んでいたら、シャマルの携帯が着信を告げた。
液晶の表示を見るなりシャマルは顔をしかめて、悪ぃ、そう一言告げて店の外へ出ていった。
あら珍しい。飲んでるときに掛かってくる電話は、普段ならガン無視決め込む筈なのに。
よっぽどの方からの着信なんだろうなー、と思いながら
グラスの底に沈んださくらんぼが食べたくて、ストローで氷の隙間から引き上げる事に熱中していると、
少しして不機嫌そうにシャマルが席に戻ってきた。
椅子の背もたれにかけていたジャケットから手帳を取り出すと、来週の金曜日の枠にこう記した。

13:15 成田発 イタリア

ほほう、イタリアとな。
思わず口にしたら、勝手に手帳を覗くなと苦言を呈されたが、覗いたんではなくたまたま視界に入ってきたのだ。
いいなーイタリア。まだ行ったこと無ぁーい。アタシも行きたぁーい。
さして酔ってるわけでもないのにふざけた口調でそう言ったら、
煙草に火をつけながら勝手にしろ、とシャマルは返した。
え、いいの?じゃあ行っちゃおー。
以上が、先週のお話。確かにこのやりとりでは、本気でついてくるとは思わないだろう。

翌週金曜日。
成田発 アリタリア航空 AZ785便の搭乗口に居た私を見て、シャマルは大層驚いていた。
お前ストーカーだったのか、とまで言われた。ひどすぎる。
一緒に行きたいって言ったら勝手にしろって言ったのはシャマルじゃんかー。

それから国際線特有の異常に長い待ち時間を、気まずい空気のまま過ごす羽目になった。
ときどき思い付いたかのようにシャマルが口を開く。
イタリアはスリが横行してるから財布と携帯とパスポートは肌身離さず持ってろよ、とか。
お父さんかアンタは。

そんなわけで飛行機もエコノミーとビジネスクラス、ホテルも三ツ星クラスとB&B、
(ベッド&ブレックファーストの略。因みに人通りが多く比較的治安の良い地区で、駅に近く、
安くて小奇麗なB&Bをシャマルが手配してくれた。日本で言ったら東●インみたいな感じ。)
と、まあそんなわけでカップルでイタリア旅行とは到底言えそうにない、
終始別行動を貫いて私とシャマルはこのイタリア、ローマの地にいる。
今日で滞在3日目。シャマルとはB&Bのチェックイン以来顔を合わせていなかった。

「明日の便で帰るからな、時間作ったから、今日の夕飯くらい一緒に食おう。夕方そっちに迎えに行く。」

シャマルはそう簡素に用件だけ伝えて、通話は途切れた。
そうか、いよいよ今夜が審判の時だ。それまでの執行猶予を存分に楽しもう。
飲み終えたコーヒーカップを道端のゴミ箱に捨てると、私は車道へ降り立った。
ヘイ、タクシー!

午後4時。
夕方迎えに行く、と言われていた私は、準備にかかる時間を逆算してB&Bへ戻った。
シャワーを浴びてさっぱりし、香水をつけ直す。もはやド定番だが、クロエのフレグランスが好きだ。
昼間は洗いざらしのまま落ろしていた髪をアップスタイルに、露天で買った安物の大ぶりのピアスをして
ヒールの靴を履いて行けば、昼間のマキシワンピのままでも高級店に入れてくれるだろう。たぶん。
そんな事をつらつら考えながら化粧直しをしていたら携帯が鳴った。

「準備できたか?下で待ってる」

ジャストタイミング。さあ、いざ出陣だ。

シャマルに連れられてきたのは、歴史ある趣きを感じる重厚なつくりのリストランテだった。
きっちりとモーニングを着こんだ老紳士が、椅子を引いてくれる。
これはどうやら上っ面だけのおめかしでは甘かったようだ。
幸い、シャマルからもお店からもダメ出しは受けていないけれど。

「お前メニュー読めねぇだろ。俺が適当に頼むから、メインは肉と魚どっちがいい?」

私は小さく笑って魚、と答える。
こうやって、イニシアチブを握りながらもこちらへの選択肢もちゃんと残してくれる、
私はそういうシャマルのスマートな女の扱い方が好きだ。
前菜、スープとパン、そしてメインの白身魚と続き、テーブルにはワインボトルとグラスが残された。
じきにドルチェが運ばれてくるだろう。
ここまでの間、我々の間に決定打となりうる会話はなされていない。
この3日間、私一人でどうイタリア観光を楽しんだのか、という事を主軸に豪勢な食事を楽しんだ。
ドルチェが運ばれて来る前、ちょうどテーブルがある程度空いたところで、
煙草吸ってもいいか、とシャマルが問う。私はどうぞ、と返した。
いよいよ審判の時が迫っているな、なんとなく私はそう感じ取る。

「・・・お前さ、なんで今回、イタリアまでついてきたわけ?」

そら来た。
日本人特有の、空気を読む能力がピリリと冴えわたった、そんな瞬間だった。

「私達の関係を、ハッキリさせたかった、っていうのが9割方の理由かな。」

「・・・残り1割は?」

「ただ、海外旅行したーい!っていう、しがないOLのバカンス願望。」

ハァ、とひとつため息をついて、シャマルはぼりぼり頭を掻いた。
そうだ、しがないOLが僅か1週間足らずという短い期間の間に、上司や取引先に根回しをして
なかば強引にもぎ取ってきたイタリア行き3泊5日分の有給なのだ。(間に土日を挟むので有給は3日間だけど)
でも、それだけの労力とお金をかけて、私は答えが知りたかった。
テーブルには、我々の会話のセンテンスを絶妙に嗅ぎ取って、邪魔にならないタイミングで
ドルチェとエスプレッソが並んだ。どうやらこの店のウエイターも空気を読める人間らしい。

「ねぇシャマル」

私の呼びかけに、シャマルはエスプレッソのカップを傾けながら、片眉を持ち上げて応える。

「私たちは、どういう間柄なのかな。3日間、色々考えたんだけどね、私は"肩書き"が欲しいんだと思う。
私は、シャマルの恋人なのかな。それとも、セックスフレンド?」

「それは、」いかつい手には似合わない、小さなエスプレッソカップをソーサーに戻して、
シャマルは琥珀色の水面から、@@@に視線を移す。

「それは、俺が決めることなのか?どういう基準に達していれば、恋人だと言える?」

そう、それが問題なのだ。明確な基準などどこにもない。だからこそ、いつの世も男と女はすれ違う。
会社の様に、決裁権を持つのが部長、プロジェクトを仕切るのが課長、そんな明確な基準でもって
肩書きを決定付けることができない。

「@@@、お前は俺と居て、満たされているか?孤独や、むなしさを感じたことはあるか?」

「今のところ、ない。」

熟考する暇なく、口が勝手にそう動いた。
そうか、このぐるぐるぐとした思考の渦から、ようやく正解の輪郭が見えてきた。
私もシャマルも、束縛する事、される事、そのどちらもが嫌いだった。
だから、自然と気が向いたときに会い、食事をし、ベッドを共にする。そういう付き合い方が常習化していた。
それを、心無い第三者に「それってセフレとどう違うの?」そう問われて答えを見失った。
それからずっと、私の頭の中にその疑問がこびり付いて、ぐるぐると思考の渦にはまってしまったのだ。
"恋人"という明文化されていない肩書き欲しさに、私はイタリアまでついて来てしまった。

「正解なんてどこにもありゃしないさ。俺が居て、@@@が居て、他人が居れば、
みんなそれぞれの観念を持って生きてるんだ。恋人の定義なんてものはどこにもない」

―――そうかぁ。
私はシャンデリアのぶら下がる天上を見上げて深呼吸のように長いため息を吐いた。
なんだか妙に腑に落ちてしまったのだ。明確な答えなんて無い、それが正解だったなんて。
あーあ、私イタリアまで何しに来たんだろう、前進したのか停滞したままなのか良く分からない。
いや楽しかったけどねイタリア観光自体は。
そう思いながらクリームブリュレの表面にパリパリと亀裂を立てながらスプーンを入れたら、眼前のシャマルが口を開いた。

「ただな、」
シャマルは上着の内ポケットに手を伸ばす。
一週間前、イタリアへ行く旨を記した手帳の入っていたそこから、かわりに小さな箱が出てきた。
見間違いようがない、ブルーグリーンの小箱。ティファニーだ。

別に物で釣ろうってんじゃないから。シャマルがそっぽ向きながらぼそりと呟く。
その様がおかしくて、嬉しくて、私はニヤニヤしながら包みを解いた。

Please Return to Tiffany & Co. NEWYORK

かつて、ティファニーではその商品にシリアルナンバーをつけていたそうだ。
”拾ったらティファニーまで届けてください”
そうすることで、持ち主を特定して届けてくれていたとか。
そのメッセージが転じて、”離れていても返ってくる”と恋人たちに人気となったシリーズだ。
束縛を嫌って、糸の切れた凧のようにあっちへふらふらこっちへふらふらする私たちには
まさにうってつけのメッセージのように思えた。

「・・・シャマル先生、実はわたくし、真実の口とトレビの泉にはまだ行っていないのです」

「・・・ああ?」

「良い気になったついでに我侭を申し上げますけど、・・・もう1日延泊して、一緒に観光したい、なぁ」

シャマルは呆れたように笑って、煙草を灰皿に押し付けてもみ消す。

「レンタルバイクは探すの大変そうだから、レンタカーで勘弁しろよ」

勿論。
私はブリュレの上に乗っかった生クリームだけをすくって、口の中を甘さでいっぱいにしながら頷いた。